(2020.12.14記)
死を前にして、死を語る。新刊「死という最後の未来」で、まったく対極の死生観を持つお二人が、対談。石原慎太郎さん87歳。曽野綾子さんが88歳。まさに、残された人生はあとわずか。迫りくる「死」をテーマにした激論。真摯なる思いで、座り直して読ませていただきました。
帯封には「キリスト教の信仰を生きる曽野綾子」「法華経を哲学とする石原慎太郎」と書いてありました。
キリスト教と仏教。全くかみ合わない「死生観」が、「文壇」という共通項のなかで、お互いがお互いの人生観を尊敬していることが、ひしひしと伝わりながら、「死」をテーマに展開していく。
【石原慎太郎と曽野綾子、二人の死生観】
石原「7年前に、ある日突然、軽い脳梗塞に見舞われ、今年1月には、初期のすい臓癌が見つかりました。・・・人生の限界を感じないわけにいかなくなりました」
・・・
石原「死ねば、意識がなくなると思います。意識がなくなったら知覚できないわけだ
ら、何もとらえることができないでしょう。
死ぬことは『虚無』なんですよね。何もない。だけど『虚無は虚無として存る』とね。それしか言いようがない。
僕はこの間、ライフワークである『法華経』の現代文訳をようやく仕上げたところなのですが、お釈迦様が言った『色即是空、空即是色』は、時間と空間に関する究極と言ってもいいアフォリズムです。
死んで時間が途絶えたら、すべてがなくなるんですよ。
僕は、死にたくないですね。死んでも死にきれないんです。僕は最後の最後まで絶対にあきらめたくない人だから。今、非常にあがいている」
石原「曽野さんは死ぬことが怖くない」
曽野「あまり怖いとは思わないですね」
石原「僕は、日々切迫するぐらい、死について考えざるをえなくなっていますね。やはり同年代の親しい仲間がばたばた死んでいきますね。これはつらい」
【曽野綾子氏 反論】
曽根「私にしてみれば、死んだら終わりと思っている人は、ある意味、怖い。お金が欲しいから泥棒するとか、癪に障るから人殺しをするとか、放火するとか、自分の欲望のまま実行してしまうということが、私にはよくわからない。死について学べば、少なくても、こういう考えには及ばないんですよ」
石原「死ぬときは意識が失せるわけだから、結局、何もかもわからなくなって、捉えられない。そういう怖さと悔しさのようなものがありますね」
曽野「命は、続くらしいです。その生き方によって、報われるということになっています。前世での生き方によって、天国に行く人と地獄に行く人とに、仕分けられるそうです。
天国と地獄の中間に煉獄(れんごく)というところがあって、そこで罪の報いをして天国に行くようです。天国に行く予備空間といわれていますね」
石原「来世もありますか?」
曽野「あるという考えです。でも、未知ですから、来世があるから、死別した会いたい人に会えるかもしれないとか、そういう希望はあるかもしれないし、絶望があるかもしれない」
石原「そういう考えは、仏教にはないんですな。お釈迦様は、まったくそのようなことは言っていない。仏教での来世は、平安時代の末期に浄土宗の法然が、ひとびとの恐怖を救うために言い出したんです。極楽というものがあって、『南無阿弥陀仏』と唱えれば救われると。今でいえば一種のセールス。
釈迦自身は、来世とか輪廻転生とか、天国とか地獄などとは、ひとことも言っていないんです。だから、僕は、死とは「最後の未知」だと思っていて、なんとかそれを知りたいわけです」
曽野「私は、成仏ということが、よくわからないのです」
石原「成仏というのは、仏教、法華経では『涅槃(ねはん)』というんです。非常に安からな、とにかく安心立命した形で逝くということ」
曽野「私は、霊魂というものはあって、不滅かなと思っております。・・・私には、人間の一生は「永遠の前の一瞬」という言葉が、いつも胸にあるんですよ。この世に生きて、たくさんのことを考え、喜び、悲しんできたことが、死によって終わる、パタリとその動きをやめてしまうということはないと思いますね」
石原「そうですか。僕は息を引き取ったら、一瞬で魂もなくなると思いますけどね。瞬間に、チリ芥(あくた)になる」
・・・
曽野「人間の死は決して、命の消滅ではなくて、永遠に向かっての新しい誕生日、という意味ですね。これは、カトリック教徒の全員の中にあるものなのです」
石原「それは、魂は永遠であると話していた、それですね。僕は、死は死であって、一瞬にして消滅すると思っているから、対極にある考えだけど」
曽野「もちろん、それはそれでいいんです。人それぞれであっていいと思う」
石原「それでも、死んだら自意識が失われて、知覚もなくなって、何も分からなるわけだから、意味がない、空しいだけだ」 (以上、抜粋編集)
・・・
全246P、考えさせられるやりとりが続きます。脳梗塞を3度やり生命の危機を感じている私は、一気に読ませていただきました。(注※私は、平成28年7月、菩提寺である曹洞宗「総持寺」にて生前戒名をもらい、同年7月に生前葬。死を覚悟し、すべての断捨離を行いました)・・・
【仏教とキリスト教】
それにしても、かみ合わない。
仏教とキリスト教。
ブッダと一神教。
仏教徒は、4億人。キリスト教は、22億人。
聖書は、世界最大のベストセラー、60億冊以上。
お二人とも、白を黒とは絶対に言わない、『信念』の人達なのですが、「自分は正しい、相手は間違っている」と思っても、言葉を選び相手の尊厳を重んじて冷静に対談をしている様子が紙面から伝わってきました。
曽野綾子さんは、早くから、カトリックの洗礼を受け、1979年には、ローマ教皇庁よりバチカン有効十字勲章を受章しました。91歳で亡くなった夫、三浦朱門さんと共にカトリック教徒です。
さて、キリスト教の神髄はなんなのか、
「アダムのイブが、人類の出発点です。これを無視して人間の物語は始まりません。すべては、アダムが神の忠告にもかかわらず、禁断の木の実を、ヘビ(サタン)にそそのかされて食べたことから、人間の原罪が生まれました。それを、救世するのが、イエス・キリストです(主の贖罪)。
そして、人間のクライマックスシーンが訪れます。それが人間の死です。そして「最後の審判」が下されます。神はすべての死者を蘇らせ、人間を天国と地獄に分ける」
ここが、大問題です。敬虔なるキリスト信者は100%天国に行き、永遠の生命を授かる。まさに待ち望んだすばらしい天国です。だが、一方には地獄がある。では、いったいどんな人が地獄に行くというのでしょうか。神を冒涜するもの、大罪を犯したものなのでしょうか?・・・
曽野綾子さんは、死に対する恐怖は微塵もないはずです。当たり前だと思います。それが宗教です。キリスト教への「信仰」とは、そういうことだと思います。死に対して迷い、恐れがあるうちは、信仰がまだ足りないということになります。
このキリスト教は、歴史を見ると、西暦726年から1054年の聖像禁止令から始まる東西分裂(ローマ・カトリック教会とギリシャ正教)。そして更に、1517年~、免罪符に始まるマルティン・ルターの宗教改革で、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離)、聖職者の腐敗、権力闘争、主義主張、『聖書の解釈の仕方』によって分裂を起こし、現在までキリスト教系新宗教がたくさんできております。
一方、仏教はどうなのでしょうか。仏教の開祖は、「お釈迦様」です。日本では13の宗派があります(日蓮宗・浄土真宗・浄土宗・天台宗・曹洞宗・真言宗・臨済宗・華厳宗、等)
石原慎太郎氏の「法華経」で、私が、すぐ思い出したのは、37歳で亡くなった宮沢賢治が、法華経を信仰し、日蓮宗(上野の国柱会、田中智学先生との出会い)の熱き信者であり、最後の遺言が、「私の死後、法華経を1000部、知人友人に送って頂きたい」と。法華経をこころの拠り所にしていた賢治は、「死んだらおしまい」と思っていたのでしょうか。死後の世界、魂の不滅を信じ、死んだ、妹「トシ」に会えることを切に願っていたのではないのでしょうか(私見)。
お釈迦様は、死後世界について「無記(答えない)」としています。よって、すべての経典が、「生き方」の経典です。死後を言及した経典はなく、魂の実在を述べた文書もありません。よって、仏教の悟りとは、「人生は苦であることを知る」こと、「人生は思い通りにならない」・・・死後の魂という概念はなく、仏教では死後存続がない。よって、魂の実在を説いていない。よって魂の救済などありえない。諸行無常、死んだら虚無、「はかない、つかの間の人生」ということになり、死に対する回答は、仏典にはないのだから、石原慎太郎さんの、死とは何なんだ、「教えてくれ!」という嘆きも、当然だと思われます。
ところが、仏教徒で禅僧でもある、京セラの名誉会長、日本航空の立て直しに尽力した稲盛和夫氏(88歳)は、65歳の時、得度をして、仏門に入りました。その著書「生き方」には(2004年初版、現在130万部。3部作として「考え方」「心。」)、なんとまったく違うことが書かれております。
【稲盛和夫の死生観】
「死によって私たちの肉体は滅びますが、心魂は、死なずに永世を保つ。私はそのことを信じていますから、現世での死とはあくまでも、魂の新しい旅の始まりを意味します。だからその旅立ちに向けて、周到な準備をすべく、最後の20年は人生とは何かを改めて学び、死への準備をしたい。そう考えて得度を決意したわけです。
人生とは、よき経験を多く積んでいくことが、つまりは『心を磨く』ことにつながり、おのずから悟りに近づくことにもなる。そうやって高められた魂は、現世だけではなく、来世にも継承されていくのです。人間という生命が最終的に目指すものは、ただ、心の訓練にあり、その魂の修行の場として、私たちの人生が与えられているということなのです。したがって、その大目的の前では、この世で築いた財産、名誉、地位などは、いかほどの意味もありません。いくら出世しようが、一生かかっても使いきれないほどの財産を築こうが、こころを高めることの大切さに比せば、いっさいは塵芥(じんかい)のごとき些細なものでしかないのです」
そして、その心とは、「利他」です。「世のため人のために尽くす」と何度も述べ、それによって心は磨かれると。
この本の終わりには、「宇宙の意志」、「サムシング・グレート」・「魂」・「真我」に多くのページがさかれております。
稲盛氏は、この経済至上主義の世の中で、大企業のトップとして、数々の経営の指南書をだし、「経営者の成功への達人者」といわれる方が、財産も、地位も、名誉もまったく必要なしと断言しているのは、これは驚くべき見解だと思いました。
仏教から導き出される「死生観」が、真逆なのが驚きです。
「無記」のはずの仏教が、今日現在、真っ二つに分裂しております。「あなたは霊魂の存在を信じますか」という僧侶1335人へのアンケートには、「ある」と答えた僧侶もたくさんいました。(鵜飼秀徳氏の2018年の著書「霊魂を探して」より)、もはや、お釈迦様の、無記では、先に進めない状況に来ているのではないでしょうか。(新仏教・修正仏教・葬式仏教)
今回、史上空前の大ヒット「鬼滅の刃」は、まさに輪廻転生は当たり前の世界。生まれ変わりの世界。若者の半分以上が違和感なく感じている死後の世界「生まれ変わり」。実は、多くの漫画本の内容には、この「生まれ変わり」を、当たり前のこととして扱っている本がたくさんあります。まさに、このコロナ禍の中で、大きな変化が起きているのかもしれません。・・・
しかし、問題は、「死後の世界」の実体です。具体的にどのような世界なのか、その真実、真理、実相、これが最も知りたいところです。
神は、人間を裁き、大罪を犯したものを、「永遠の地獄」へおとすのだろうか?「地獄」はあるのか?
あの世は、幽霊の世界、足のないお化けの世界。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界。エンマ大王が待ち受けている世界。これでは、だれでも行きたくないでしょう。
【日本人の自然信仰】
日本人の伝統的死後観は、魂は自然の中に還る。自然の力で魂が浄化され自然と一体となって永遠の生を得る。一万年前の縄文時代から日本人のこころに育まれてきた自然信仰です。(自然信仰と大乗仏教の習合)
【あなたと宗教】
宗教とは、なんでしょう。
今まで生きてきた、あなたの人生そのものが、あなたにぴったりの「宗教」に出会うようになっているのかもしれません。「私は無宗教です」、「宗教はきらいです」、「死んだらゴミです。それでおしまいです」と断言される方は、これが、あなたが今、この人生で導き出した、かけがえのない死生観であり、それが今の「あなたの宗教」だということでしょう。
(宗教へ至る要因→生まれた国の宗教、民族信仰、地域信仰、両親・友人・勧誘からの影響、自由意志による最終の自己決定)
曽野綾子「(石原氏の死んだら虚無だという思いに対して)それはそれでいいんです。人それぞれであっていいと思う」・・・
できたら永遠に遠ざけたい死を、改めて色々と考えさせられました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
【この世界(あの世)には、肉体がありません。『こころ』がすべてです。「魂」がすべてです。魂こそが実在です。
死後、魂は、鳥かごから放たれた鳥のように、完全に開放されます。さなぎが美しい蝶になって大空を飛び回っています。死は、終焉ではありません。悲しむべきことではありません。皆さんは、赤ちゃんが生まれたとき喜びますが、しかし、私たちの世界ではお別れです。同じように、地上の死は、お別れ、悲しみですが、こちらの世界では、帰ってきた霊を「頑張ったね」と言って、多くの霊たちが喜んでお迎えしております】
【もし、人生が、つかの間の短い一生で終わるなら、こんな理不尽なことはありません。三歳で亡くなった幼児、25歳で、難病で亡くなった方、働き盛りに突然の交通事故で亡くなった人、この人たちは、これですべてが、終わるのでしょうか。
この理不尽さは、何度も生まれ変わることにより、永遠の命の営みの中で、その理不尽により傾いた天秤棒は、いつしかその均衡が保たれるようになっていきます。神の公正は、絶対です。
人生とは、魂の修行です。その経験から得る魂の学びです。この地球は、大宇宙の学びの場です。地球は、そのための人類の修行の場です】
【人生は続きがあります。あの世が「真実の実体」です。コインの表です。
あなたは、死んで消滅するわけではありません。信じられないかもしれませんが、死後、あなた自身が、あの世で、現世で生きてきたすべての体験をたずさえて、あなたの個別「意識」が復活します。あなたの全人格が、完璧にそっくりそのままあの世で蘇るのです。そうでなければ、あなたは、あなたではなくなってしまいます。あなたが、「意識」の発信元・受信元と確信している「脳」は、単なる物質的な入れ物にすぎません。
死は、物質である「肉体」から解放される、すばらしい新たなる旅立ちなのです。喜ぶべきことなのです】
魂は、不滅です。
自著「告白~よみがえれ魂~」コールサック社【守護霊の涙】より一部抜粋。
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