苦はありがたいこと

エッセイ
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(2020.04.30記)

第一章【子供心に、思ったこと】

私の家のそば(歩いて5分)には、あの、真言宗、空海(弘法大師)を宗祖とする、大本山「川崎大師」があり、子供のころから今日まで、何百回となく、あたかも公園のような感覚で遊びに行き、また、参拝しておりました。

そして今年のお正月も、全国から三が日だけで、約300万人(全国第三位)の方々が、「ある目的」でやってきます。 

私はもの物心がついた10歳の頃から、そのことが不思議で不思議で仕方なかった。つまり急に思い立ったように、この日に多くの人達が大挙してやってくる。その目的は「神様、仏様、どうか私を幸せにしてください。私の願い事を叶えてください」と。 

神様はたいへんだなあ、本当に神様は、万人の心を一瞬の内に読み取り、すべての人のこころの願いをかなえなければならない、でも、そもそも年に1~2回しかやってこないのに、それは神様に対して、大変、自分勝手なお願いではないでしょうか、と子供心に思いました。・・・ 

さらに、驚くべきことに、この三が日には、川崎大師駅の正門前には、まるでそれを阻止するかのように、イエス・キリストを信仰する数名の方々(『聖書配布協力会』の方々)が立ちはだかり、3つほどの大きな看板を手に持ち、大空に高く掲げ、そこには「キリストを信じるものは、救われる」「キリストの他に、神はいない」「罪を悔い改めなさい」「死後さばきにあう」「私を信じる者は、永遠の命を持つ」と。まるで、仏教に挑戦状を叩きつけるかのように、「みなさん、速やかに、Uターンしてください、参拝してはいけません。はやく、本当の神に目覚めてください」と言っているように見えます。多くの参拝者たちは、それを見ないように、無視するかのように、足早に大本山をめざす。まさに、不思議な、異様な光景が、正門前で、毎年繰り広げられております。 

しかし、この出来事は、子供心に強烈に焼き付き、いったい「真実」は何なのか、「キリストとは何者なのか」「宗教」とは、何なのか。「神様は本当にいるのか」と、大いなる疑問を抱き、何度も問いかけました。 

第二章【何事もなく、平穏無事を願う心】 

「関東厄除け三大師」、それは、私の地元の「川崎大師」(わが家から徒歩5分)、「西新井大師」、千葉県香取市の「観福寺」の三大師です。 

地元でもあり、幼少の頃からお大師さまに、公園のように、何百回と遊んだりお参りしておりました。 

その「厄除け」の「厄(やく)」とは何ですか?厄とは「苦しみ・災い」のことで、人生を無事安泰に過ごすために、私たちは祈願祈祷する。その心は、「災いの回避」です。そのお題目は、「家内安全」「無病息災」「交通安全」等、そして究極のオールマイティーのお題目は、「大願成就」です。

私も、年初に当たり、以前は、このような現世的なご利益を切に願い、当たり前のように「病気になりませんように」「今年一年平穏無事でありますように」と願ってきました。しかし、同時に、大きな違和感を感じておりました。神様がいるならば、この願いをすべて叶えられるのか、そもそも叶えることがその人の為になるのか。神とはなんですかと・・・ 

12年前に『シルバーバーチの霊訓』(世界三大霊訓の一つ。スピリチュアル本)に出会い、その霊言集(全12巻)を何度も読みました。 

バーチは、「人生に降りかかる、苦しみや悲しみ」に対して、まさに現世的な視野ではなく、霊的視野、神的視野で、「神の摂理」を述べております。『シルバーバーチの霊訓(一)』三章「なぜ苦しみがあるのか」(p52~56抜粋)。 

「もし私が説く真理を聞くことによって、楽な人生を送れるようになったとしたら、それは、私が神から授かった使命に背いたことになります。私どもは、人生の「悩み」や「苦しみ」を避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに完全とたち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い人間になってくださることが私どもの真の目的なのです」 

「悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも、特に深甚なる意味をもつものです。悲しみは、それが魂の琴線(きんせん)にふれた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は、肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためには、よほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸、等は地上の人間にとって、教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしも、その教訓が簡単に学べるものならば、それはたいして価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ、学べるものだからこそ、それを学べるだけの準備のできていた魂にとって『深甚なる価値』があるといえるのです」 

「魂の偉大さは、苦難を乗り切る時にこそ、発揮されます。失意も、落胆も魂のこやしです。魂が、その秘められた力を発揮するには、いかなるこやしを摂取すればよいかを、知る必要があります。それが、地上人生の目的なのです。失意のどん底にある時は、もうすべてが終わったかの感じを抱くものですが、実は、そこから始まるのです。あなた方には、まだまだ発揮されてない力-それまで発揮されたものより遥かに、大きな力が宿されているのです。それは、楽な人生の中では、決して発揮されません。苦痛と困難の中にあってこそ、発揮されるのです。 

金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。それ以外に方法がないのです。他にあるという人がもしいるとしても、私は知りません。」 

この一連の言葉は、人生の核心にふれる、驚くべき「真理」だと思いました。その 

「霊的知識」は、「人は死なない」「魂は不滅である」ということ。「人間は神の霊性をもった神の子である」と、よって「死んだらお終い」ではありませんと。 

「現世利益を求める」考え方からは、「承服しかねる」と考える人が、大ぜいいることでしょう。 

友人も、「苦しみも、困難も、大地震も、洪水も、すべてないほうがいいに、決まっている。平穏無事がすべてです」と言いました。 

また、日本の有名な思想家である「小林正観」さんは、その著書「そ・わ・か」のなかで、 

「幸せの本質とは、何も起きず、普通に、淡々と過ぎる日常、これこそ幸せの本質であると気づくと、災難とは無縁になる」

「なにも起きないことがどれほど幸せであるか。何も起きないことが幸せの絶対的な本質です」と述べ、 

最後に「何も起きない、淡々とした日々が続き、普通の生活が、普通に、当たり前に過ぎていくこと、それが「最高の幸せ」なのです」と語っております。 

死後の世界がなく、つかの間の本当に短いあっという間の人生なら、できればそうありたいと思うのは、人間なら、当然の帰結でしょう 。

人生とは、つらい、苦しい、思いもよらない不条理な出来事が、次から次へと襲ってきます。この現実社会に、まさにその通りだと。 

しかし、シルバーバーチは、魂は不滅です。死んだらお終いではありません。

神の摂理を説き、人は死なない、死後存続、霊的視野に立ち、「苦の甘受」(苦はありがたいこと)こそが、人生であると、力強く、何度も何度も、述べております。

それは、まさに私にとって、

ハットさせられる「魂のめざめ」

「魂がゆさぶられる、黄金の言葉」です。 

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